『メリンダとメリンダ』評 【注意:ネタバレあり】2005年07月03日 22:05

7/2(土)夜、恵比寿ガーデン・シネマでウディ・アレンの『メリンダとメリンダ』19:15の回を見る。満員というほどではないが、中央のよい席はほぼ一杯。女性同志か、アベックが多い。白人女性もちらほら姿が見える。(恵比寿は外人の姿が多くなった。少なくともLAの日系スーパーミ○ワよりは多いと思う。)

メリンダという1人の女性を軸にした、コメディと悲劇の2つの物語が同時進行。話が混乱しないか心配したが、登場人物がメリンダ以外は全員別の人物であり、画面の質感もコメディは柔らかく、悲劇は固く、と多少変えてあるので、混乱せずすんだ。そもそも2つの物語で同じなのは核となる以下の部分のみで、細部の展開や人物設定は全然違う。

・田舎から出てきた女性メリンダが、NYのある夫妻のパーティに突然転がり込んでくる。 ・夫妻(又は友人)がメリンダにBFを紹介しようとする。 ・メリンダは紹介された相手とは別の相手(ピアニスト)を好きになる。 ・いろいろあって、最後にメリンダはピアニストと別れる。

意外なのは、メリンダが必ずしも物語の中心人物ではないこと。特にコメディでは中心になるのは、階下に引越してきたメリンダに恋するウィル・ファレル演じる売れない役者だ。アレンの分身とも言える神経症とドタバタぶりを発揮し、妻との関係にも悩む中年男の恋のおかしさを描く。悲劇バージョンでも前半こそメリンダを中心に話が進むが、メリンダが居候する親友の夫妻の亀裂も丹念に描き、やがてその親友がメリンダのBFと関係して破局のクライマックスを迎える。

アレンは「ひとつのアイデアをもとにコメディと悲劇の2つの物語を作り、何かを学べるか試してみた」と語っている。では観客にとって教訓的な映画かというと、そうではない。少なくとも映画が伝えようとしているのは「人生は同じものごとでも見方によって変わるのだから、明るい面だけ見て楽しく生きるべきだ」なんて、昨今ありがちな単純なメッセージではない。

劇中で、2人の作家がひとつの話から、喜劇と悲劇それぞれの物語を組みたててみせるが、2人ともアレンの分身なのだ。喜劇も悲劇もともに人生の真実であり、どう生きようが、最後に人間は死ぬ。目に見えて確認できるものだけが確かな存在であり、生きているうちだけが華なのだという最後の作家の主張こそアレンの哲学である。2つの物語を並べること自体は、同じアイデアからでもいろいろな物語を創造できるのだということをアレン自身が芸術家として立証してみせたということで、それ以上の意味はない。

コメディ版は楽しめるが、やや深みに欠け、アレンも出てこないのでTVコメディの域に留まっている。悲劇版には魅力的な人物があまり出てこない。唯一、夫との不仲関係に苦しむうちに、メリンダのBFのやさしさに救いを見出し、彼と深い関係になっていくクロエ・セヴィニーが見る者の共感を呼ぶくらいだろう。

登場人物の誰にもアレンが深く肩入れせず、客観的に見ているという点では黒澤明晩年の「乱」に通じるものがある。「乱」は「人間の愚かしさを天からの視点で見る」ことで人間の愚かしさを浮かび上がらせようという黒澤のペシミスティックな作品で、それまでの黒澤作品と異なって登場人物は自らの手で運命を切り開くというよりは愚かしさと運命に翻弄されるばかりである。それらを通じて、人間の愚かしさが浮き彫りになるのだ。『メリンダ』でも、アレンが一番伝えたかったのは、2つのメリンダの物語そのものではなく、「コミカルな人生も、悲劇的な人生もやがて必ず終わる(=人は必ず死ぬ)」というアレン十八番のメッセージだ。そのメッセージをこれまでのように物語そのものに組み込むのではなく、「『作家が創造した虚構の物語』という語り口の構造を利用して観客に訴える」ことが本作の最大のミソであり、アレンが同じメッセージを再び取り上げた所以である。

あと、どう言うわけか、はじめ字幕の内容が全然、頭に入ってこなくて混乱した。哲学者とか不条理とかいう単語がうまく消化できず、意味が伝わってこないのだ。歳をとったせいかもしれないけど、そう感じたのは僕だけだろうか。

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