バーナード・ハーマンと『サイコ』 ― 2005年09月15日 06:34
バーナード・ハーマンは1911年6月30日にニューヨークで生まれた。CBSのラジオドラマの音楽を書いていた時に、ラジオでマーキュリー劇団のドラマをやっていたオーソン・ウェルズと知り合い、ウェルズに連れられてハリウッドへ来て『市民ケーン』の音楽を書いた。以来ハーマンは映画音楽を手がけるようになる。
ハーマンといえば、ヒッチコック作品の音楽で有名である。1955年の『ハリーの災難』から始まって、『間違えられた男』『知りすぎていた男』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『マーニー』まで、多くの作品で音楽を書いた。また音楽のない『鳥』ではサウンドコンサルタントとして、鳥の鳴き声を作り出している。
1960年の『サイコ』は1400万ドルもの興行収入をあげたヒッチコック最大のヒット作品である。(これは現在の価値に換算すると1億ドル以上になる。)ヒッチコックはこの作品を白黒で撮影し、テレビのスタッフを使って撮影を短期間で終わらせるなどして、わずか80万ドルの製作費で作り上げた。しかし音楽が入っていない粗編集の段階では仕上がりが気に入らず、1時間に短縮してテレビで放映することも考えたという。
ヒッチコックはハーマンに対し、モーテルの場面、特にジャネット・リーがシャワールームで殺されるシーンは音楽を入れないよう指示した。シャワーの音とナイフが刺される音、水が排水口に流れる音、そしてジャネット・リーの叫び声だけを使うというのがヒッチコックのアイデアだった。だがハーマンはこれに従わず、弦楽器のみを使ったサスペンスフルなスコアを書いてきた。そしてシャワーシーンを音楽なしの場合と音楽を付けた場合とでそれぞれ上映してみた。上映後、ヒッチコックは一も二もなく、ハーマンの音楽を使うことに決めたという。
残念ながらハーマンとヒッチコックの協力関係は、1966年の『引き裂かれたカーテン』で幕を閉じる。若い観客向けに新しい音楽を書くよう要求したヒッチコックはハーマンが書いたスコアを古臭いと感じ、2人は袂を分かつ。その後ハーマンはハリウッドを去り、英国へと移住する。
1975年にハーマンはマーチン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』の音楽を担当するためにロサンゼルスへ来る。敬意を表したスピルバーグがスタジオに立ち寄って、その音楽を褒め称えるとハーマンは腹をたて「だったら君はどうしてジョン・ウィリアムズばかり使ってるんだ」と叫んだという。そしてハーマンは録音を終えた12月23日のクリスマスイブの夜、ホテルで就寝中に心臓発作で死去する。64歳だった。
コロンビア映画の歴史 ― 2005年09月10日 13:21
1918年、ハリー・コーンとジャック・コーンの兄弟はパートナーのジョー・ブラントと共同で、低予算映画を製作するための会社CBCフィルム・セールス・コーポレーションを設立、これがコロンビアの前身となる。(CBCとは、コーン・ブラント・コーンの略だが、冗談でコーン・ビーフ付きキャベツなどと呼ばれたりした。)短編映画の成功により、同社は1922年に初の長編映画『軽蔑より憐れみを』を2万ドルで製作。13万ドルの利益を得る大成功を収め、その後も長編映画の製作を続けていく。
1924年にCBCは会社組織を法人化し、社名をコロンビア・ピクチャーズ・コーポレーションに変更した。当時、同社はハリウッドのガウアー通りとサンセット通りの交差するあたりにあった。そこは同じような低予算映画の製作会社が多かったため、「貧乏人の町」とも呼ばれていた。設立当社のコロンビアは低予算映画を量産していた。
1927年、コロンビアは同社初のトーキー作品『ドノヴァン』をフランク・キャプラ監督で製作する。キャプラは1934年の『或る夜の出来事』でアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞を受賞する快挙を果たす。その後もキャプラは『オペラ・ハット』、『わが家の楽園』(アカデミー作品賞)、『スミス都へ行く』などの名作を続々と監督し、コロンビアの名声を高めるのに貢献する。1935年、コロンビアはロサンゼルスのバーバンクに映画撮影用の土地を購入する。
当時のコロンビアの契約下にあった俳優は、ロザリンド・ラッセル、リタ・ヘイワース、グレン・フォード、ウィリアム・ホールデンなどのスター達だった。
1947年の『ジョルスン物語』は、同社最大の収益をもたらすブロックバスターとなった。1949年の『オール・ザ・キングスメン』はアカデミー作品賞に輝いた。
1948年、コロンビアはスクリーン・ゲムスという会社を設立して、映画スタジオとして初めてテレビ業界への進出。『奥様は魔女』『チャーリーズ・エンジェル』など、合わせて275のテレビ・シリーズを製作した。コロンビアのテレビ部門は、後にコロンビア・ピクチャーズ・テレビジョン、そしてコロンビア・トライスター・テレビジョンと名前を変え、2002年にソニー・ピクチャーズ・テレビジョンとなっている。
50年代後半、コロンビアの創設者であったコーン兄弟が死去する。50年代のコロンビアは『ここより永遠に』『波止場』『戦場にかける橋』でアカデミー作品賞をとっている。
1960年代は、『バイ・バイ・バーディー』『ファニー・ガール』『博士の異常な愛情』『いつも心に太陽を』といった作品を製作し、『アラビアのロレンス』『わが命つきるとも』『オリバー!』でアカデミー作品賞をとった。
1970年代は、『追憶』『ミッドナイト・エクスプレス』『タクシー・ドライバー』『ザ・ディープ』『未知との遭遇』、そしてアカデミー作品賞の『クレイマー、クレイマー』を製作。この頃、コロンビアはガウアー通りの撮影所を閉鎖し、バーバンクへ移動した。1972年、コロンビアは不動産部門の持ち株をワーナー・コミュニケーションズ・インクと合併させ、バーバンク・スタジオを設立した。
1979年、コロンビア・ピクチャーズ・ホーム・ビデオを設立し、同社の作品をベータやVHSのビデオで配給するビジネスを開始する。同社は今日ではコロンビア・トライスター・ホーム・エンターテイメントとなっている。
1982年、コロンビアはコカ・コーラに買収される。1980年代の作品は、『トッツィー』『ベスト・キッド』『パラダイス・アーミー』『ゴースト・バスターズ』、そしてアカデミー作品賞の『ガンジー』。1987年には、コロンビア・トライスター・テレビジョンはキャッスル・ロック・エンターテイメントのコメディドラマ『サインフェルド』の配給権を獲得、同番組は大ヒットする。
1983年、コロンビアはHBO、CBSと共同で、トライスター・ピクチャーズを設立。同社は『ナチュラル』『ランボー2』『ペギー・スーの結婚』などを製作する。
1989年、ソニーがコカ・コーラからコロンビアを買収する。MGMが昔使っていたカルバー・シティの撮影所にスタジオを移し、名前もソニー・ピクチャーズ・エンターテイメントとなる。1991年に購入されたカルバー・スタジオは、『キング・コング』『風と共に去りぬ』『市民ケーン』が撮影された場所で、1919年にトーマス・インスによって設立され、セシル・B・デミル、デヴィッド・O・セルズニック、RKOが所有した。スタジオはソニー・ピクチャーズ・テレビジョンが使用していたが、2003年に売却された。
1992年、ソニー・ピクチャーズ・クラシックス(SPC)が設立され、海外の作品やインディペンデント映画の買い付け、製作、配給などを行った。同社の手がけた作品には、『グリーン・デスティニー』『ポロック』『ハワーズ・エンド』『インドシナ』などがある。
2002年、『スパイダーマン』『メン・イン・ブラック2』『スチュアート・リトル2』『パニック・ルーム』『ブラック・ホーク・ダウン』などのヒット作品により、同社はアメリカ国内で15.7億ドル、海外で2.87億ドルの巨額の興行収益をあげる。
参考 http://www.sonypicturesmuseum.com/studio_history/spe_history.html