『アニー・ホール』未公開シーンの写真 ― 2005年09月10日 12:26

eベイで見付けた『アニー・ホール』宣伝用の写真です。映画にはない場面なので、撮影されたものの編集で削除されてしまったようです。ウディにキスしている女性はダイアン・キートンのようですが、よく分かりません。写真の説明文にも場面については何も書かれていません。
コロンビア映画の歴史 ― 2005年09月10日 13:21
1918年、ハリー・コーンとジャック・コーンの兄弟はパートナーのジョー・ブラントと共同で、低予算映画を製作するための会社CBCフィルム・セールス・コーポレーションを設立、これがコロンビアの前身となる。(CBCとは、コーン・ブラント・コーンの略だが、冗談でコーン・ビーフ付きキャベツなどと呼ばれたりした。)短編映画の成功により、同社は1922年に初の長編映画『軽蔑より憐れみを』を2万ドルで製作。13万ドルの利益を得る大成功を収め、その後も長編映画の製作を続けていく。
1924年にCBCは会社組織を法人化し、社名をコロンビア・ピクチャーズ・コーポレーションに変更した。当時、同社はハリウッドのガウアー通りとサンセット通りの交差するあたりにあった。そこは同じような低予算映画の製作会社が多かったため、「貧乏人の町」とも呼ばれていた。設立当社のコロンビアは低予算映画を量産していた。
1927年、コロンビアは同社初のトーキー作品『ドノヴァン』をフランク・キャプラ監督で製作する。キャプラは1934年の『或る夜の出来事』でアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞を受賞する快挙を果たす。その後もキャプラは『オペラ・ハット』、『わが家の楽園』(アカデミー作品賞)、『スミス都へ行く』などの名作を続々と監督し、コロンビアの名声を高めるのに貢献する。1935年、コロンビアはロサンゼルスのバーバンクに映画撮影用の土地を購入する。
当時のコロンビアの契約下にあった俳優は、ロザリンド・ラッセル、リタ・ヘイワース、グレン・フォード、ウィリアム・ホールデンなどのスター達だった。
1947年の『ジョルスン物語』は、同社最大の収益をもたらすブロックバスターとなった。1949年の『オール・ザ・キングスメン』はアカデミー作品賞に輝いた。
1948年、コロンビアはスクリーン・ゲムスという会社を設立して、映画スタジオとして初めてテレビ業界への進出。『奥様は魔女』『チャーリーズ・エンジェル』など、合わせて275のテレビ・シリーズを製作した。コロンビアのテレビ部門は、後にコロンビア・ピクチャーズ・テレビジョン、そしてコロンビア・トライスター・テレビジョンと名前を変え、2002年にソニー・ピクチャーズ・テレビジョンとなっている。
50年代後半、コロンビアの創設者であったコーン兄弟が死去する。50年代のコロンビアは『ここより永遠に』『波止場』『戦場にかける橋』でアカデミー作品賞をとっている。
1960年代は、『バイ・バイ・バーディー』『ファニー・ガール』『博士の異常な愛情』『いつも心に太陽を』といった作品を製作し、『アラビアのロレンス』『わが命つきるとも』『オリバー!』でアカデミー作品賞をとった。
1970年代は、『追憶』『ミッドナイト・エクスプレス』『タクシー・ドライバー』『ザ・ディープ』『未知との遭遇』、そしてアカデミー作品賞の『クレイマー、クレイマー』を製作。この頃、コロンビアはガウアー通りの撮影所を閉鎖し、バーバンクへ移動した。1972年、コロンビアは不動産部門の持ち株をワーナー・コミュニケーションズ・インクと合併させ、バーバンク・スタジオを設立した。
1979年、コロンビア・ピクチャーズ・ホーム・ビデオを設立し、同社の作品をベータやVHSのビデオで配給するビジネスを開始する。同社は今日ではコロンビア・トライスター・ホーム・エンターテイメントとなっている。
1982年、コロンビアはコカ・コーラに買収される。1980年代の作品は、『トッツィー』『ベスト・キッド』『パラダイス・アーミー』『ゴースト・バスターズ』、そしてアカデミー作品賞の『ガンジー』。1987年には、コロンビア・トライスター・テレビジョンはキャッスル・ロック・エンターテイメントのコメディドラマ『サインフェルド』の配給権を獲得、同番組は大ヒットする。
1983年、コロンビアはHBO、CBSと共同で、トライスター・ピクチャーズを設立。同社は『ナチュラル』『ランボー2』『ペギー・スーの結婚』などを製作する。
1989年、ソニーがコカ・コーラからコロンビアを買収する。MGMが昔使っていたカルバー・シティの撮影所にスタジオを移し、名前もソニー・ピクチャーズ・エンターテイメントとなる。1991年に購入されたカルバー・スタジオは、『キング・コング』『風と共に去りぬ』『市民ケーン』が撮影された場所で、1919年にトーマス・インスによって設立され、セシル・B・デミル、デヴィッド・O・セルズニック、RKOが所有した。スタジオはソニー・ピクチャーズ・テレビジョンが使用していたが、2003年に売却された。
1992年、ソニー・ピクチャーズ・クラシックス(SPC)が設立され、海外の作品やインディペンデント映画の買い付け、製作、配給などを行った。同社の手がけた作品には、『グリーン・デスティニー』『ポロック』『ハワーズ・エンド』『インドシナ』などがある。
2002年、『スパイダーマン』『メン・イン・ブラック2』『スチュアート・リトル2』『パニック・ルーム』『ブラック・ホーク・ダウン』などのヒット作品により、同社はアメリカ国内で15.7億ドル、海外で2.87億ドルの巨額の興行収益をあげる。
参考 http://www.sonypicturesmuseum.com/studio_history/spe_history.html
ウディ映画のロケ地紹介サイト ― 2005年09月13日 06:13
アレンの映画のニューヨークのロケ地を紹介するサイトです。「アニー・ホール」「マンハッタン」「ハンナとその姉妹」などのロケ地が出てます。
http://www.nyc-architecture.com/ARCH/Notes-Woody.htm
一方、こちらはロサンゼルスの映画ロケ地を紹介するサイトです。「アニー・ホール」の最後の方で、アレンとダイアン・キートンが別れるレストランです。
『カイロの紫のバラ』「チーク・トゥ・チーク」歌詞 ― 2005年09月15日 05:12
『カイロの紫のバラ』のタイトル部分と、ラストにはフレッド・アステア歌う「チーク・トゥ・チーク」が流れる。アステアとジンジャー・ロジャース共演のRKOミュージカル映画『トップ・ハット』で使われた曲で、二人のダンス・シーンも映画ではちらりと流される。スクリーンから抜け出したトム・バクスターは元の世界に戻り、一緒の生活を約束していた俳優には裏切られ、また不実な夫とのやるせない日々に戻るしかないセシリア。しかし、つらい現実に戻る前の彼女にひとときの安らぎを与えてくれるのが、大好きな映画だった。スクリーンで華麗なダンスを踊るアステアとロジャースを食い入るように見つめる彼女。一心に見ていれば、彼らが再びバクスターのようにスクリーンから出てくるのではないか。彼女のそんな願いが伝わってくるかのような、せつなく胸につまるエンディングだった。
Cheek to Cheek (Irving Berlin)
Fred Astaire
Heaven, I'm in Heaven,
And my heart beats so that I can hardly speak
And I seem to find the happiness I seek
When we're out together dancing, cheek to cheek.
Heaven, I'm in Heaven,
And the cares that hang around me thro' the week
Seem to vanish like a gambler's lucky streak
When we're out together dancing, cheek to cheek.
Oh! I love to climb a mountain,
And to reach the highest peak,
But it doesn't thrill me half as much
As dancing cheek to cheek.
Oh! I love to go out fishing
In a river or a creek,
But I don't enjoy it half as much
As dancing cheek to cheek.
Dance with me
I want my arm about you;
The charm about you
Will carry me thro' to Heaven
I'm in Heaven,
and my heart beats so that I can hardly speak;
And I seem to find the happiness I seek
When we're out together dancing cheek to cheek.
『アニー・ホール』「イット・ハド・トゥ・ビー・ユー」 ― 2005年09月15日 05:47
『アニー・ホール』にはダイアン・キートンがクラブで歌うシーンが2回出てくるが、これはそのはじめのシーンで歌われた曲。初めてアレンが歌を聞きにきてくれたというのに、クラブは客のおしゃべりや皿の割れる音、電話のベルなどで騒がしい。すっかり気落ちしたキートンをアレンがなぐさめて、ふたりは初めてベッドインする。この曲は『カサブランカ』でもリックの店で賑やかに歌われているが、アレンジの違いで全然別の歌のように聞こえる。
It had to be you
It had to be you
I wandered around
And finally found
Somebody who
Could make me be true
Could make me be blue.
Or even be glad
Just to be sad
Thinking of you.
バーナード・ハーマンと『サイコ』 ― 2005年09月15日 06:34
バーナード・ハーマンは1911年6月30日にニューヨークで生まれた。CBSのラジオドラマの音楽を書いていた時に、ラジオでマーキュリー劇団のドラマをやっていたオーソン・ウェルズと知り合い、ウェルズに連れられてハリウッドへ来て『市民ケーン』の音楽を書いた。以来ハーマンは映画音楽を手がけるようになる。
ハーマンといえば、ヒッチコック作品の音楽で有名である。1955年の『ハリーの災難』から始まって、『間違えられた男』『知りすぎていた男』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『マーニー』まで、多くの作品で音楽を書いた。また音楽のない『鳥』ではサウンドコンサルタントとして、鳥の鳴き声を作り出している。
1960年の『サイコ』は1400万ドルもの興行収入をあげたヒッチコック最大のヒット作品である。(これは現在の価値に換算すると1億ドル以上になる。)ヒッチコックはこの作品を白黒で撮影し、テレビのスタッフを使って撮影を短期間で終わらせるなどして、わずか80万ドルの製作費で作り上げた。しかし音楽が入っていない粗編集の段階では仕上がりが気に入らず、1時間に短縮してテレビで放映することも考えたという。
ヒッチコックはハーマンに対し、モーテルの場面、特にジャネット・リーがシャワールームで殺されるシーンは音楽を入れないよう指示した。シャワーの音とナイフが刺される音、水が排水口に流れる音、そしてジャネット・リーの叫び声だけを使うというのがヒッチコックのアイデアだった。だがハーマンはこれに従わず、弦楽器のみを使ったサスペンスフルなスコアを書いてきた。そしてシャワーシーンを音楽なしの場合と音楽を付けた場合とでそれぞれ上映してみた。上映後、ヒッチコックは一も二もなく、ハーマンの音楽を使うことに決めたという。
残念ながらハーマンとヒッチコックの協力関係は、1966年の『引き裂かれたカーテン』で幕を閉じる。若い観客向けに新しい音楽を書くよう要求したヒッチコックはハーマンが書いたスコアを古臭いと感じ、2人は袂を分かつ。その後ハーマンはハリウッドを去り、英国へと移住する。
1975年にハーマンはマーチン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』の音楽を担当するためにロサンゼルスへ来る。敬意を表したスピルバーグがスタジオに立ち寄って、その音楽を褒め称えるとハーマンは腹をたて「だったら君はどうしてジョン・ウィリアムズばかり使ってるんだ」と叫んだという。そしてハーマンは録音を終えた12月23日のクリスマスイブの夜、ホテルで就寝中に心臓発作で死去する。64歳だった。
NYに戻ったアレン、カーライルでのジャズ演奏を再開 ― 2005年09月15日 07:29

アレンのロンドンでの新作ロケのため、6/6(月)を最後に長らくホテル・カーライルでの毎週月曜の演奏を休止していたアレンのジャズ・バンドだが、9/12(月)から演奏を再開した。(ロケも無事に終了したということ?)。この日、久々の演奏で流れたのは、"Chimes Blues"、"Basin Street Blues"、"All The Girls Go Crazy"など。この後、年内は12/26まで演奏を続ける予定だという。
http://www.woodyallenband.com/blog/
↓クラリネットを演奏するアレンの写真。 http://www.flickr.com/photos/jerryzigmont/42979587/
アレンのバンド、ハリケーン救済募金イベントに参加 ― 2005年09月20日 07:30
9/24(土)にニューヨーカー誌がNYで開催するハリケーン・カトリーナ救済基金の募金イベントに、アレンのバンドも参加する。(イベント詳細は newyorker.com)
September 24, 7:30 p.m. New York, N.Y. Town Hall 123 West 43rd St. 877-391-0545
参加名は Eddy Davis and His New Orleans Jazz Band featuring Woody Allen。参加アーティストは多数だが、ウィレム・デフォー、ケヴィン・クライン、トニ・モリソン、ルウ・リードといった名前も見られる。
チケットは$250、$100、$50で、チケット売上は100%が赤十字に寄付され、Condé Nast Publicationsが同額を寄付するとのこと。
「マッシュ」主題歌 『自殺は苦しくない』 ― 2005年09月22日 05:09
映画: 「M*A*S*H(マッシュ)」
曲名: Suicide is painless(『自殺は苦しくない』)
朝鮮戦争時の野戦病院を舞台にしたロバート・アルトマン初期のヒット作「M*A*S*H(マッシュ)」の主題歌。冒頭のタイトルバックで山岳地帯を飛ぶヘリコプターを背景に流れる。ギターの弾き語りによる静かなバラード調で「自殺は苦しくないし、いろいろ気分転換になる。それにやるかやらないかは自分次第」というちょっと怖い内容の歌。一見自殺を肯定する歌詞だが、ベトナム戦争当時に自分ではどうにもならない状況下におかれた人間のささやかな抵抗の歌となっている。
映画の大ヒットでアラン・アルダ主演によるテレビシリーズが作られ、人気が出て長寿番組となった。テレビ版でもこの音楽が主題曲として使われたが、テレビ向けに歌詞は除かれていた。アメリカでは今でもケーブルテレビで再放送されるほどの人気番組だが、ヒットの立役者だったアルトマンには、雇われ監督の悲しさで映画の監督料以外は何ももらえず、テレビ化の恩恵はまったくなかったという。
ところで20年近く前に初めてビデオで見た時は、歌詞の"painless"を"paradise"だと思い、ずっとそう覚えてきた。今回、実は"painless"だったと知って、長年の理解が違っていたことに少々驚いた。でも"painless"より"paradise"の方が毒がきいていて面白いではないか。
なお冒頭でヘリコプターが飛ぶ韓国の山岳地帯は、実はロサンゼルスの西方カマリロで撮影された。現在はこの場所のすぐ近くにカリフォルニア州立大学チャネルアイランズ校が設立されている。
Through early morning fog I see Visions of the things to be The pains that withheld for me I realize and I can see That suicide is painless It brings on many changes And I can take or leave it if I please
朝早くの霧ごしに僕は見た、 物事のあるべき姿を。 僕のために準備されている苦痛を。 このことは僕にも分かるし、理解できる。 自殺は苦しくない。 いろいろ気分転換にもなる。 それにやるかやらないかは自分次第。
The game of life is hard to play I'm gonna lose it anyway The losing card I'll someday lay So this is all I have to say Suicide is painless It brings on many changes And I can take or leave it if I please
人生はかなり大変なゲームだ。 どっちにせよ僕に勝ち目はない。 いつか負けのカードに賭ける羽目になる。 だから僕が言うべきことはこれだけだ。 自殺は苦しくない。 いろいろ気分転換にもなる。 それにやるかやらないかは自分次第。
The sword of time will pierce our skin It doesn't hurt when it begins But as it works its way on it The pain grows stronger watch it grin Suicide is painless It brings on many changes And I can take or leave it if I please
時という剣が僕らを突き刺す。 はじめのうち痛みはないが。 やがて時とともに効いてきて。 歯を食いしばっても痛みは強くなる。 自殺は苦しくない。 いろいろ気分転換にもなる。 それにやるかやらないかは自分次第。
A brave man once requested me To answer questions that are key Is it to be or not to be? And I replied "oh, why ask me?" Suicide is painless It brings on many changes And I can take or leave it if I please
ある時、勇者が僕に訊いた。 大切な質問に答えてほしい。 生きるべきか死ぬべきか、と。 僕は答えた「やれやれ、なぜ僕なんだ?」。 自殺は苦しくない。 いろいろ気分転換にもなる。 それにやるかやらないかは僕次第。
And you can do the same thing If you please
君だって、やるかやらないかは自分次第なんだ。
キューブリックの偽者あらわる?! ― 2005年09月22日 05:20
Vanity Fair誌の1996年4月号に載っていた記事から。
1993年7月3日の晩、ロンドンのあるレストランでの出来事。4人の男がテーブルに座っており、その中の1人がウェートレスに、自分は映画監督のスタンリー・キューブリックだが、ニューヨークのアクセントで話せるかと尋ねた。彼女がやってみせると、男は次回作に出てみないかと誘い、自宅の電話番号をおしえた。ウェートレスは不審に思ったが、一緒にいたのが英国議会の議員だったので信用した。さらに男は、隣のテーブルにニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストの文芸欄の記者がいると知ると、彼らの批評が気に入らないと文句をつけ始めた。キューブリックがマスコミの前に姿を現わすことは滅多にないため、記者達は仰天した。記者達は男に質問を浴びせかけたが、キューブリックと名乗る男はそれには答えず、後日インタビューに応じる約束をして、その場を去った。しかし記者がワーナーに問い合わせてみると、その男はキューブリックではなく、真っ赤な偽者だったことが判明したという。男と一緒にいた議員はコメントを拒絶している。手の込んだ詐欺まがいか、単なるいたずらか。真相は不明である。